東海大のインターネットは私が作り上げた。
(2010.04記)
東海大のインターネットは私が立ち上げた。
そういっても、信用されそうにないが。
この事実を知っているのは、現在でも東海大に数人いる。
卒業していった学生はたくさんいる。
インターネットを使いたくて私の授業にわざわざ他学科からきた学生もいる。
さらにその学生からの口コミで、学生がふえた。
もちろん、そのころは、まだ日本語の端末もほとんど存在しない時代だし、
WWWもあるわけではない。おもにやれたことは、メールとネットニュースだ。
ニュースはほとんど無限に存在した。その中から欲しいジャンルを選ぶのは大変なくらいだ。
そしてそのことを当時の計算センターが、学生からのある質問で知ることになった。
センターに聞きにいった学生がいるのだ。なんてアホな。
さあ、そうなったら、もうおしまい。
とうとうある日、いつものようにゼミをしてるところに計算センターの職員が乗り込んできたのだ。
そして、それからは東海大学じゅうに広まったのだ。
規模はあれよあれよというまに拡大した。
いままで、単純にキャンパスをつないでいたケーブルがあったが、それを撤去し、
新しくキャンパスをはりめぐらすケーブルを張り直し、どの号館にも、
行き渡るようにし、インターネットは東海大全員のものとなっていった。
もちろん、すべてが私一人でやれたわけではない。
東海大という巨人にどう立ち向かうかが問題であった。
そのときの情報数理学科の主任である(しかも私の学生時代からの友人でもあった)成島先生が
援助をしてくれたおかげである。
私の性格を知ってるからこそ、許してもらえたのであろう。
なにせ、昔は飲み仲間だったのだから。
全部が許してもらえたわけではなかった。
最初のお願いはダメだった。最初のお願いはベル研のUNIXのソースが欲しくて、
お金は私が個人的に払うから、「アカデミックな授業で必要」という書類を
書いて欲しいとお願いしたが、こちらは拒否されてしまった。
ソースを授業で公開したかった。
ソースは個人的に入手していたが、規約上、それを授業公開できない。
アカデミックで購入するのは破格に安かったから個人でも払えた値段なのだ。
あとで聞くと成島先生は個人のお金ではダメで大学からの公費で払うようにしたいと
望んだらしいのだが、それが却下されたようなのだ。
そして、もう一つはインターネット用に用意する公衆電話回線だ。
これも当初は、電話の使用料、基本料は私が払うので敷きたいと申し出たが、
断られた。
しかし、裏で成島先生が動いてくれていた。
情報数理学科で、ファックスが必要ということで、電話回線を用意してくれたのだ。
感謝だった。
あとは、当時もっとも高速なモーデム、「トレイルブレザー」を購入し、晴れて
インターネット・デビューとなった。
デビューといってもまだ、日本では正式にはインターネットではなく、
JUNET(ジュネット、ジューンネット、ジャネットといろいろ呼称があるが)
と言う、「実験的インターネット」だった。
まだまだバックボーンとかそういったものはなく、JUNETではお互いが公衆回線で
モーデムでつなぐというスタイルだった。
でもそれだけのことでも感動した。なにせ世界が身近なものになったのだから。
そのうち、JUNETも日本中に行き渡るぐらいになり、とうとう、「実験的」という部分が
取り払われる時期がくる。
つまり、世界公認となるわけだが、そうなると、いままでのサイトには、
正式な名称が必要になる。いままでは、マシンに適当な名前をつけることで済んでいた。
しかし、正式になれば、東海大学公認の名称をつけなければならない。
じつは、これが私の苦痛だった。
東海大学にサイト名をつけると、半永久にその名称が使われることになるからだ。
そういう名前を私が個人で勝手につけていいものかどうか。
それが一番の心配だった。
とうとう、ある日、JUNETの主催者の「村井純」から、電話がかかってくる。
村井純とは、それまでにJUSとか、あるいは日本サンで顔を合わせていた。
ひょっこり、日本サンを一人で訪れたとき、向こうは一人女子大生を引き連れていて、
この女子大生をサンに入れてと頼んでるようであった。
そうか、じゃあ私もそういうことをやってみようかなと思ったのはそのときである。
東海大学にu-tokaiというサイト名をつけたのは私です
「なになに日までに、名称をつけてください。」
とうとうその日が来てしまった。村井純から電話がかかってきたのだ。
私は相談相手は当時のゼミ生しかいなかった。
その当時のゼミ生には山田さん、加藤さん、笠井、大木、榎本がいた。
この中の加藤さんが、その後、日本サンに就職することになる。
まあ、「この中で選ぶとしたら、どれがいい?」と候補3つくらいから選んだ。
名称はアルファベット、数字の組み合わせだが、あと少しの記号が許されるが、
あとで、この記号はダメとなると、こんどは訂正のことを東海大が知ることになり、
だれがいったい名前をつけたんだと責められるのが、こわいので、
そういう変更が起きないよう注意を払わなければならなかった。
そうして、申請直前で決めたのが、"utokai"だ。
当時、区切りに"-"や"_"を使うのが多かった。しかし、おそらくどっちか一つに
転がるだろう。
もしも付けたほうでないのが正式な文字になったら、大変である。
そこで、"-"も"_"も付けない、ちょっと変なので通そうとした。
そのとき、SRAが頼みの綱だったので、申請直前にSRAのある人にメールを出した。
「utokaiで申請するつもりだ。」すると、彼からのメールは「u-tokaiがいいんじゃない?」
たぶん、彼は"-"なら大丈夫だとわかっていたのだろう。
安心して申請は"u-tokai"にした。それがいまでも使われている。
まあ、この当時は、たいていは、u-tokyoのように、u-大学名だった。
しかし、その後、変化が起こり、新しく参入してきた大学は 大学-u が多くなった。
なので、どっちにしてるかで、いつごろ参入してきたかがわかる。
最初のうちはメールアドレスは"kamii@u-tokai.junet"だった。しかし、拡大後は、
kamii@ss.u-tokai.ac.jpとなる。(いまは、使えない)
当時の小手技
当時は、まだまだ、いまのような専用回線は無くて、電話回線によるネットが主流だった。
電話機の代わりにモーデムをつけて、時間ごとに自動でダイヤリングをして、他のマシンとつなぎ、情報を送ったり、受けたりUUCPする方法だった。
内容は電子ニュースと電子メールが主であった。
Hyper-Textというアイデアはあったが、まだ、いまのような画像があるWEBというのはなかった。
そんなとき、家と大学を電話回線でつないで、大学に置いてあるマシン(honey)をメンテナンスするのであるが、
(たいていは夜だから、大学にいない)
どうやってつないだかというと、
大学のモーデムは自動ダイアルができるが、外部からこの電話番号に直接はかけられない。
外部からつなごうとすると、大学の交換手が人間の声でかけたい番号を聞き、交換手がつなぐ。
そんなことを夜はやれない。(お正月のとき、こまって、かけたら守衛さんが出て、守衛さんがつないでくれたときもあったな)
そこで、普段どうやるかというと、家から、ある特殊なメールを大学の自分のアドレス宛てに出す。
すると、15分くらい経過後にメールがとどき、そのメールにより、honeyがモーデムを
動かし、わが家にダイアルをかけてくる。
家で待機していた私が、それを受けて、無事に家のApple][と大学のhoneyがつながり、
メンテナンスができる。電話代は大学持ちだから、気がねなく、何時間でもやれる。
と、そういう時代であった。
こちらにも記述がある。
こっちは、まだ私が東海大学にいたころ、情報数理学科のT先生から、ぜひ、記録として残してくださいと、
頼まれて、少しずつ、書きためていたものだ。